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理事長のひとりごと

理事長のひとりごと

[2017年04月24日] 中世の山城巡り

 ここ数年、日本の戦国時代につくられた全国で2万とも3万ヵ所ともいわれている中世の城巡りをしている。お城といえば姫路城や大坂城に代表されるような立派な天守閣や大手門、石垣、水を湛えた堀などを想像するが、私の関心は石垣も天守閣もない、土の城や山城に代表されるような中世の城で、そのほとんどが自然の地形を活かす縄張りをしていて、城ごとに違った表情をもっている。山城歩きの面白さはそうした自然の地形をどう活かして、守るためにどんなふうに工夫したかを実際に行って想像することにある。

 今年の2月、大河ドラマ「真田丸」で有名になった岩櫃城を訪ねた。1563年真田幸村の祖父にあたる幸隆が攻めたがその天険と上杉謙信の援軍によって城を落とせなかったが翌々年にようやく陥落した。岩櫃山山頂から東に下った標高597mの尾根に岩櫃城の本丸が置かれている。本丸には天守閣はなく堀も空堀であるが、この城の見所は本丸から放射線状に伸びた長大な竪堀とそれに交差する横堀をうまく組合わせて、折れを設けることで横矢を掛け、敵兵の侵入を防いでいる蜘蛛の巣状の岩櫃城独特の縄張りにある。

 関東地方は室町時代から騒乱が続き、戦国前期には北条、上杉、武田が城を取ったり取られたりして、土の城が高度に発達している。そういう戦国時代をたくましく生き抜いた真田一族と関係があった千曲川沿いに点在する小諸城と上田城、松代城にも3月に出かけた。

 徳川秀忠が関ヶ原の戦いに向かう1600年、第2次上田城攻略のとき本陣が置かれたのが小諸城二ノ丸だった。小諸城は信濃で最も古い石垣が天守台などに残っているが、浅間山の火山灰地が河川で凹字形に侵食された田切たぎり地形が入り組んでいて、その複雑な大地と断崖絶壁を利用してつくられている、まさに土の城であった。上田城は千曲川の分流尼ヶ淵に昌幸が築いた土の城だが、関が原の戦いで昌幸、幸村親子が高野山に追放になった際、徳川家康により徹底的に破却された。地元の話では、東軍についた幸村の兄の真田信之が次の上田城主となり、こっそり元の形に戻したといわれている。そのため後になって、やぐら櫓門やぐらもん、石垣が整備されたが、本丸堀の周囲は長大な土塁が続いており、土の城の面影を残している。一方松代城は、1622年に信之が松代藩に移り整備した。その松代城の前身は1560年武田信玄が完成させた海津城で、武田流の丸馬出や三日月堀があったといわれ、北不明門には櫓門が石垣に乗らない中世の城門の趣きがある。

 この10年ぐらいで山城ブームが起こり整備が進んできたが、そもそも山城は交通の不便な場所にある。そこまで行くのがたいへんで、地元の人もほとんど知らないし登り口も行ってみるまで分からない。だから城の歴史的な由来や縄張り図ばかりでなく、交通機関やお昼をどうするか、山道の状態に合わせた足まわりや杖、雨や寒さ対策など、事前にしっかり用意しておかないとそもそも行き着けない。いろいろ下調べをして、山の城を巡ることで戦国武将たちの生きざまに会えるのもまた楽しい。

上田城の本丸土塁と堀.jpg

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上田城の本丸土塁と堀、右手の北東(鬼門)にあたる土塁は削られ、災難よけとして隅欠すみかきになっている。正面奥には本丸東虎口の土橋がみえている。

2017年4月24日

理事長 近森正幸