相談役 近森正幸のひとりごと
[2023年7月25日] O-リングテストクリニック、山本重明先生を偲んで
社会医療法人 近森会
理事長 近森 正幸
近森に来て頂いて40年になる、O-リングテストクリニックの山本重明先生が2023年5月27日静かに亡くなられた。
先生は1983年7月、まだ父 正博が院長の時代に野戦病院のような近森病院に内科、循環器科の医師として来て頂いた。お父様が北本町1丁目で産婦人科のクリニックを開業されており、ご近所であったことから小さい頃から近森に親近感を持ってくださっていたのではないかと思っている。
当時は診断や治療方法が未発達で、主に外科医が手術で治療を行っており、薬剤にしても病気の原因を取り除く薬剤は抗生剤ぐらいで、ほとんどの薬剤が症状を緩和させる薬剤であった。内科医として診断や治療方法がない中で、先生は1985年3月、東京の野口英世記念会館においてバイ・ディジタルO-リングテストの創始者の大村恵昭教授による日本で最初の講演会でO-リングテストの素晴らしさに触れ、翌年の1986年には院内に「大村テスト臨床応用研究会」を発足し、全国に先駆けてO-リングテストを診療に応用してくれています。
1989年12月には「東洋医学科」を開設、科長として日々の診療に積極的にO-リングテストを活用し、今まで難治とされていた種々の慢性疾患の患者さんに漢方薬やレーザー治療を施し、快方に向かわせてくれていました。1992年7月、近森病院の新館建設に伴い、世界で初めて「O-リングテストクリニック(O-リング科)」の専門外来を開設、本格的にO-リングテストによる診療を行っています。その8月には大村恵昭教授がニューヨークから来日された際には近森病院に立ち寄って頂き、私もお会いすることができましたし、その後、山本先生とお二人で室戸を回って帰られましたが、室戸岬の空海が修行をされたという神明窟奥の結界で囲われたポイントのすごいパワーをO-リングテストで確かめたり、昼食の貝に食中毒菌が認められ、危うく難を逃れた話など、楽しく聞かせて頂きました。
2003年10月には当時の近森病院第二分院、現 総合心療センターの2階外来フロアーに移られるとともに、O-リング科の部長に就任され、落ち着いた環境で治療法や薬剤が進歩した現在でも、いまだ西洋医学では対応できない患者さんにO-リングテストと東洋医学を組み合わせたきめの細かい診療を続けて下さいました。
私も2009年10月に舌癌術後の頚部多発リンパ節転移で頚部郭清術を受けましたが、山本先生にO-リングテストで調べてもらうと右耳介の下1cm、後方1.5cmのところにCTやエコーでは絶対診断できない直径2mm程の癌の遺残が見つかり、つらい放射線治療を受ける決断をすることができました。しかも放射線治療が進むとともに左手に癌のプレパラートを持ち、右手の親指と人差し指をOの字に丸めた両方から山本先生に引っ張って頂くと最初のうちはパカンと開いていましたが、癌が消失するとともに次第に開かなくなってきました。TS-1の抗癌剤を左手に持って引っ張ってもらうと、癌が残っている間はよく効く抗癌剤だったので治療効果があり、しっかり閉じていましたが、治療が進むとともに癌が消失し不必要になったことと、抗癌剤の毒性が前面に出てパカンと開くようになり、癌が完全に消失したことを確信することができました。O-リングテストに習熟された山本先生のおかげでステージⅣの末期癌から奇跡的に生還することができ、近森会グループの全面増改築というビッグプロジェクトをやり遂げることが出来ました。
先生は2年前、脳梗塞による右片麻痺を発症されましたが、O-リングテストと漢方薬のみで麻痺を克服され、歩行も可能となり、再度診療に復帰されています。お元気で診療にあたっている先生の姿を見るたびに、西洋医学がなかった時代、漢方薬を駆使して多くの患者さんの治療にあたってこられた漢方医の名医とは先生のような方だったのではと思われてなりませんでした。1年前には心筋梗塞も併発され、次第に腎機能も悪くなり、透析をおすすめしましたが、先生は医師人生の生きざまを最後まで貫かれO-リングテストと漢方薬で治療され、眠るように安らかに亡くなられました。
O-リングテストという素晴らしい診断方法を人生をかけて究められ、多くの患者さんの治療にあたってこられた山本先生、本当にありがとうございました。
合掌
追伸:西洋医学では救うことが出来ない多くの患者さんに、O-リングテストと東洋医学を駆使して診療にあたり、人生をかけて信念を貫いた医師が近森にいたことを知ってもらいたくて筆をとりました。