相談役 近森正幸のひとりごと soliloquy

相談役 近森正幸のひとりごと

理事長のひとりごと

[2019年11月28日] 近森正昭先生を偲んで

 2019年11月23日、近森病院の透析外来部長、臨床工学部 部長の近森 正昭先生が急逝した。兄弟の気楽さでいつも正昭、正昭と呼んでいたので、ここでも正昭と呼びます。

 正昭は2001年に今回と同様、敗血症を発症し、死の淵をさまよったが、窪川先生はじめ内科の先生方の治療でなんとか回復しました。最近、歩く姿が少し前かがみになり、ちょっと弱ってきたのではないかと心配していたが、10月11日頃より発熱を認め、10月14日にERを受診、敗血症性ショックやDIC、急性腎不全にてICUに入院した。久先生はじめ救急部の先生方が熱心に治療を行ってくださったが、肝硬変でアルブミンや凝固因子が作られず、血小板数も低値で、感染症やDICが遷延し、11月23日治療の甲斐なく逝去した。

 唯一の救いは、正昭が生涯医師として取り組んできた、血液透析やエンドトキシンの吸着を透析科として積極的に行い、透析スタッフ一人一人が心を込めて治療にあたれたことではないかなと思う。

 正昭は、土佐高卒業後、関西医科大学に進み、関西医科大学附属病院の内科研修を経て1979年4月から東京女子医科大学 腎臓病総合医療センターで透析療法の創始者の一人であり、臨床工学技士の生みの親である太田 和夫先生のもとで外科医員として腎移植や泌尿器、透析の研鑽を積んでいる。1984年4月には、父正博が透析を行っていた近森病院分院に、泌尿器科と透析科の医師として帰って来てくれた。

 父は、整形外科や脳外科、透析といった新しい診療科を増やす毎に、先進的な取り組みをしている大学に研修に行き、近森に導入してくれていた。正昭が東京女子医大で研修を受けたのも、太田教授と父との親しいお付き合いがあったからだと思っている。

 年を取って分院で苦労しながら透析をしていた父は、正昭が帰ってきてほっとしたのか、半年後の11月26日に70歳で亡くなった。奇しくも告別式の日が11月26日で、寝ついてからの正昭の顔は父とそっくりになっていたので、きっと天国から父が迎えに来てくれたのではないかなと思っている。

 正昭は、1984年4月に近森病院分院に赴任以来、35年間にわたり血液透析や腹膜透析、エンドトキシン吸着や血漿交換などの治療にあたってくれた。

 1992年に近森病院新館が完成、現在の本館C棟7階に透析室を作っている。驚くべきことは27年経っているが、新館のほとんどは5カ年計画の近森病院増改築工事の際に全面的な改築が必要となったが、透析室だけはほとんど直す所がなかった。外来維持透析がほとんどであった当時と違い、現在は高知県中の透析施設から紹介される急性期の入院透析患者が大部分を占めており、近森の透析医療は大きく変わっている。正昭が30年先、50年先のあるべき近森の透析医療を考えて透析室を設計したとしか考えられず、いまさらながら感心している。

 透析患者は動脈硬化の進行が早く、脳卒中や心臓疾患でのPCI、バイパス手術、弁置換術、大動脈疾患、末梢動脈疾患の下肢に対するEVT、形成外科による切断術など、急性期の治療が必要とされる患者が多くみられる。現在、高知の基幹病院の透析室として、近森病院だけが外来透析患者はできるだけ制限し、急性期の入院透析患者に絞り込むことで、2019年は高知県下のすべての透析施設から年間400例以上の紹介を受けるようになった。新入院患者数は550例を超し、常時、40名から50名が入院し、全入院患者の10%を超すようになっている。

 2005年7月には臨床工学部 部長も兼務し、時間をかけて日本でも有数の臨床工学部に育ててくれた。臨床工学技士は高度な機械を扱うことから高度の医療の質と専門性が求められている。その為、臨床工学技士を急性期チームや透析チームといったグループに分け、さらには使用する機器も分け、専門領域を絞り込むことで、高い専門性を維持している。

 話は変わるが、正昭の部屋には書庫があり、先日中に入って本を数えてみたが、少なくとも2,000冊以上、3,000冊ぐらいあった。専門の泌尿器や透析の専門誌以外に病院経営や地域医療、経済学、料理や美術、漫画の初版本、その他あらゆる分野の本が並んでおり、すべて自分のお金で購入し、目を通し、頭に入れていた。また、インターネットで内閣府の経済財政諮問会議や厚労省の情報を検索し、常に最新の情報を得るように努力していた。

 そういう正昭だったので、私が理事長、院長として困ったときには正昭に相談すると即座に答えを出してくれたので、本当に有難く、感謝している。相談していたのは私だけでなく、深田技士長もそうだし、筒井薬剤部長なども新しい試みをする時は正昭に相談し、認めてもらうと自信をもって行動に移していた。

 地域医療連携やチーム医療の実践の際に理論的な裏打ちをしてくれたのも正昭で、理論と実践がかみ合うことで、近森では日本有数の多職種による病棟常駐型チーム医療が行われている。チーム医療の理論は製造業のベルトコンベアーから来ており、効率的なモジュール型と質の高いインテグラル型に分かれるが、正昭はさらに病院はサービス業で患者は個々で違うことから、居酒屋チェーンやコンビニのサービス業にも適応出来るフレーム(枠組み)という概念を考え出してくれた。こういう理論の裏打ちがあったことで、近森のチーム医療は日本一になれたように思う。

 正昭が入院して1カ月が経つが、正昭個人のパソコンに入っている未読のメールは2,000件を超しており、それだけインターネットの世界でも全国の先生方やマスコミに病院経営や地域医療についての情報提供や相談にのっていた。私も講演に行くと「近森正昭先生って先生の弟さんですか。いろいろ教えてもらっています。」とよく言われていた。

 こういうように、森羅万象に通じ先見性のある正昭ですが、如何せんコミュニケーションが苦手で、22年前から私が、12年前から吉村先生が透析現場医師として表に立って正昭をカバーしていたが、その隙をついて若い先生方の電子カルテに記事を書いていた。書いている内容は、私が見ても発想が飛躍しすぎて理解しにくく、若い先生方を傷つけることが数多くあって、先生方にはご迷惑をおかけしたと思う。

 また、病院の周辺でタバコを吸ったり、車の空ぶかしをしたりする方に注意して殴られたり、警察沙汰になったこともあった。知らない人から見れば、なんてバカなことをしているのだろうと思われた方も多かったと思うが、私の母、孝子も父が亡くなった晩年は近くの香川マンションを借りて、若い先生方の夕食を作ったり、病院周辺の草むしりをしてくれていた。近森を愛する気持ちが、このような行動をとってしまったと私は信じている。

 私の父も本をよく読み、「近森を日本のメイヨウにするんだ」とよく言っていた。正昭も多くの先生方には理解不能の存在だったと思うが、近森を愛し、近森が素晴らしい病院になるよう常に先を見て、行動し続けてくれていた。死ぬ間際まで近森の行く末を案じ、今、死ぬわけにはいかないと心配してくれていた正昭でした。正昭が灯した希望の火は、正昭を知るみんなの胸に深く刻まれており、消えることはありません。正昭、もう頑張らなくてもいいです、どうか安らかにお休みください。合掌。

追伸:年が明けた2020年1月8日の医局懇親会で「近森正昭先生を偲ぶ会」を催していただいたが、正昭を偲んで挨拶している時、暗いあの世に引き込まれる感覚にとらわれ、1週間ひどい疲れに襲われた。
17年前に母が亡くなった時も、母がいた部屋の天井の隅に霊魂を感じたし、椅子から立ち上った時にズボンがビリっと裂けたり、何より声がでなくなり、お葬式では息子に親族代表で代読してもらったが、焼場で煙が上がるとともに、咳が出て、声が出るようになったことを覚えている。なんか自分は霊感が強いのかもしれない。

2019年11月28日

理事長 近森正幸