相談役 近森正幸のドキュメント document

相談役 近森正幸のドキュメント

相談役 近森正幸のドキュメント

ひろっぱ Vol.425 2021年12月号

近森病院の75年を振り返って

社会医療法人近森会
理事長 近森 正幸

はじめに

1946年南海大地震の3日後の12月24日に本館A棟の地に近森外科が開設された。父正博が診療し、母孝子が給食、部下で元衛生兵の寺尾佐多馬が事務長の3人での小さな組織から出発した。

75年後の2021年現在では近森会グループ全体でスタッフ数2,273名、医師数151名、高度急性期から急性期、リハビリテーション、在宅まで、792床の大きな組織に成長した。

野戦病院のような病院

~量的拡大の時代~

私が外科医として高知に帰ってきた1978年当時の近森病院は、准看が当たり前の時代で、付き添いが吸うタバコのヤニで壁は真っ黄色になり、秋刀魚を焼く煙で非常ベルが鳴るような、死亡率13%の地域医療の底辺を支える野戦病院のような病院だった。

リハビリ機能をもたない救急病院は「寝たきり製造病院」にならざるを得なかった。寝たきり患者が増えれば増床を繰り返していた。そういうなかでも、父は時代の変化に合わせて外科から分かれた黎明期の整形外科や脳外科、透析の先進的な医療を自ら勉強し、近森に導入してくれていた。外科だけではなく精神科や内科を開設するとともに、1964年6月救急病院の告示以来「救急のチカモリ」として24時間365日高知で最も多くの救急患者の受入れを行い、徐々に病院を大きくしていた。父の時代は「量的拡大の時代」であったが、一方で、重症患者を集めた院内ICUや中央手術室、検査室といった機能の集中や組織づくりに合理的な考え方を近森の風土に導入してくれていた。開院から38年後の1984年に父が亡くなった時には、近森病院は質はともあれ医師数21名、スタッフ数422名、病床数579床の大病院へと発展しており、この579床の病床がなければ今日の近森の発展は不可能だったと考えられる。

量的拡大から質的向上へ

~第一の転換期~

私が1984年に院長、理事長に就任した当時、相前後して第一次地域医療計画が施行された。病床の多い高知県では増床ができなくなり、「量的拡大から質的向上」、「物から人への転換」に運営方針の大転換を行った。選択と集中で機能を絞り込み、医療の質と労働生産性の向上を図った。

1987年には増床を伴わない近森病院初の増改築を行い、中央診療部門が完成、梶原和歌(元統括看護部長)を本院の総婦長代理として迎え、近森病院の基準看護が始まった。

さらに虎ノ門病院分院の石川誠先生を招聘し、1989年には近森リハビリテーション病院が開院した。回復期リハビリテーションの確立により、近森は急性期と回復期が分離され、それぞれの機能に絞り込むことで、近森リハビリテーション病院は全国有数の全館回復期リハ病院に、近森病院は全病床を救命救急医療に絞り込み、救急搬送件数では中四国で3番目、高知でトップの屋上にヘリポートを有する救命救急センターにまで発展することが出来た。

同年、北村龍彦副院長(現システム担当顧問)を中心に総合医療情報システムが完成し、情報共有になくてはならない電子カルテシステムへの足がかりをつくってくれた。

こうして「基準看護」、「リハビリテーション」、「トータルコンピュータシステム」の三大プロジェクトが実現したことによって、1992年には新館も竣工し、近森病院は近代的な病院への道を歩むことになった。

地域医療連携と病棟連携

~病院と病棟機能の絞り込み~

1999年整形外科の衣笠清人部長により、落ち着いた外来患者を徹底して地域のかかりつけの先生方にお願いして、救急と紹介、専門外来に絞り込み、「地域医療連携」がスタートした。その後、内科の先生方も同様に対応し、2002年のハートセンターの開設、ERの設置を経て、2003年には高知県初の地域医療支援病院として実を結んだ。

2011年には完全紹介予約外来制の近森病院外来センターが完成することで、地域医療連携はほぼ完成することになった。またこの年には、高知県では民間で初となる救命救急センターに指定された。これまで浜重直久副院長(現診療担当顧問)が営々と築き上げてきてくれた大内科制が救急医療に大きく貢献することになった。

2000年には入江博之部長(現副院長兼務)により、民間では高知県初となる本格的な心臓血管外科が開設され、高度急性期医療に対応するとともに、ICUが開設され、重症の患者を集中治療病棟で診て、落ち着いたら一般病棟へ移るという「病棟連携」が始まった。現在はICU18床、救命救急病棟18床、HCU28床、SCU15床、合計79床の集中治療病棟が整備されている。

病棟常駐型チーム医療

~医師はじめ多職種のスタッフ機能の絞り込み~

2003年には臨床栄養部の宮澤靖部長(前部長)により栄養サポートチームが始まり、2006年には管理栄養士が病棟に出ることで、全国で初めて専門性が高く自律、自働する薬剤師やリハスタッフ、管理栄養士、臨床工学技士、ソーシャルワーカー、歯科衛生士などの多職種による本格的な「病棟常駐型チーム医療」がスタートした。スタッフの機能を絞り込み連携することで、医療の質を上げ労働生産性を高めるとともに、医師はじめスタッフの労働環境ややりがいが飛躍的によくなった。同年、電子カルテが本格稼働し、DPCも導入されたことでチーム医療の基盤整備がなされている。

21世紀の医療に対応できる病院へ

~近森のすべてのハードが一新~

2010年には高知県初の社会医療法人となって民間の活力をもった公的病院になるとともに、同年から7年計画で近森会グループ全体の増改築工事が始まり、これから30年、40年耐えうるハードを作り上げた。

近森病院ではヘリポートを有するA棟と北館病棟、外来センターの新築やBC棟の改築により、救急部門や手術室、集中治療病棟の大幅なスペースの拡充が図られた。急性期病床は338床から452床に増床し、さらには総合心療センターの精神科104床を60床の急性期精神科病床に機能を絞り込み本院に統合した。これからの救命救急医療に充分対応出来る512床の高度急性期病院に変貌した。

近森リハビリテーション病院は2015年江ノ口川南岸のボウルジャンボ跡に新築移転し、最先端の回復期リハ病院180床となり脳卒中、脊損のリハビリを展開している。

翌2016年は近森オルソリハビリテーション病院も近森リハ病院跡地に改築移転し、整形外科のリハ病院として運営されている。

オルソリハ病院跡地には2015年春開校した近森病院附属看護学校が改築移転し、学校上層階には近森教育研修センターが開設され、2016年より看護師特定行為研修が行われている。

2010年社会福祉法人ファミーユ高知 高知ハビリテーリングセンターの新築に続いて、2018年には、しごと・生活サポートセンターウェーブが北本町に新築移転したことを最後に、近森会グループのすべてのハードが一新された。

右肩上がりの時代から右肩下がりの時代へ

~第2の転換期~

2016年4月の診療報酬改定では、重症度、医療・看護必要度が29%と強化され、看護師の数さえ揃えれば診療報酬が得られるという「ストラクチャー評価」から、成果を出すことで評価される「アウトカム評価」に変わり、まさに2016年4月は高知の医療が大きく変わった「時の分水嶺」ともいえる改定であった。「右肩上がりの時代から右肩下がりの時代」に時代が大きく変わったことを示している。

高知県は人口が減少し患者数が限られているところに、病院の機能分化が急速に進んでおり、なかでも近森は7カ年計画による建築コストや増床に伴う人件費増で、全国でも最も大きな影響を受けた病院であった。

2016年8月には医師全員と主任以上の管理職を集め、経営方針の大転換を打ち出した。右肩下がりの時代となり、「質を保ちつつ徹底した経費の削減」を大きな経営目標とした。そのため、皆で25年間楽しんだ院内海外旅行も中止になり、中止できるものはすべて中止し、中止できないものは経費半額を目標に徹底した削減を、院内ばかりでなく病院がお世話になっている企業の皆様のご協力も得て実行した。さらに理事会の若返りを図り、部科長会も診療責任者会議に、各種委員会などもすべて再編成し、活性化を図り短時間でアウトカムの出せる会議に転換した。

これまではトップダウンで医療環境を整え、スタッフにいきいきと働いてもらえば病院の運営は順調に行われていたが、これからは情報を公開し、みんなが心を一つにしてボトムアップで変革する時代になった。時代は今、大きく変わろうとしている。

おわりに

この数年で、新型コロナ感染症をはじめ病院を取り巻く環境は大きく変わり、厳しい時代を迎えている。今までの発想にとらわれない自己変革を限りなく続け、高知の救命救急医療の基幹病院として、高知の「地域医療を守る最後の砦」として、使命感をもってその責務を果たしていきたいと決意している。