近森病院は、家業から企業(公的役割を担う医療機関)へと変貌を遂げていますが、ターニングポイントはどこにあったのでしょうか? 近森病院は父正博が診療を母孝子が給食を軍隊時代の部下の衛生兵であった寺尾佐多馬事務長の3人で近森外科としてスタートしています。近森病院となってもお正月には着飾った准看さんが挨拶に来てみんなで皿鉢を食べるといった家庭的な病院で、近森家の病院でした。それが大きく変わったのは、いろいろの企業を経験した母方の叔父野村好久が事務長として招かれ、企業の風を近森病院に入れてくれました。父は野村事務長に反発して、稟議書のハンコを逆さに押したりしていましたが、近森家の病院から企業としての病院への生みの苦しみであったと思います。最も大きな転換点は、父正博が亡くなり私が理事長、院長に就任、しばらくしてまったく血のつながりのない川添曻を事務長に抜■した時だと思います。川添管理部長は管理部の組織作りと人材の育成を営々と行い、今までコストセンターであった事務室を利益を生み出すベネフィットセンターとしての管理部に転換してくれました。最終的に医療法人近森会が社会医療法人近森会になったということは、民間企業としての病院が日赤や済生会といった公的病院になるということで、「病院は地域の公的財産で持続し続けねばならない」という意味で本来の病院の在るべき姿になれたように思います。JOB68近森外科から近森病院になったころの記念写真(近森会50年の歩みより)前列右から寺尾元事務長、近森正文(近森正博の兄)、近森正基(近森正博の父)、近森正博川添曻 前管理部長(50年目の近森会より)Q.46
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