若い時から組織のトップとして多くの決断をしてきたと思います。特に緊張した決断などあれば教えてください。また、近森病院が大きく転換したきっかけがあれば教えてください。2ページ目へつづく▼若い時は経験もなく、いつも悩みながら決断していましたが、特に緊張した決断は近森リハビリテーション病院開設の稟議書です。毎月1,000万から2,000万の赤字が出ることは分かっていましたので、さすがに悩み、理事長として初めて一晩ハンコを押すのは躊躇し、最後には石川先生の実行力を信じて翌日やっと押したことを覚えています。それ以外は稟議書が出れば、それまでに十分検討していますので、即ハンコを押すようにしています。近森病院が大きく転換した第一のきっかけは、石川誠先生です。その当時、寝たきり患者が病床の3分の2を占め、残り3分の1の病床で救急医療を行っていました。PT、OT、STの3職種は父が■えていましたが、数も少なく、訓練室でのリハビリが中心でした。なんとか本格的なリハビリテーションを行い、高知から寝たきりの拘縮した患者を一掃したいと考え(現在では近森病院入院患者には拘縮した寝たきり患者はいたとしても1、2名で、夢が叶ったと思います)、虎の門病院分院から石川誠先生を招聘しました。先生は、高知が四国山脈と太平洋に囲まれ、地域リハビリテーションが可視化でき展開しやすかったこと、街中の救急病院の隣で温泉リハビリではなく都市型リハビリテーションを確立したかったこと、何より当時の近森病院は組織が未成熟でリハ医療を院内で確立しやすかったことと、院長の私が40歳になる前で若くて柔軟だったことなどをしっかり考え、近森に来て下さいました。今では常識になっていますが、当時は先生の地域リハビリテーションや都市型リハビリテーションの発想は非常に斬新で、目から鱗の思いでした。1989年近森リハビリテーション病院を開設して頂きました。回復期リハビリテーションの確立により、近森は急性期と回復期が分離され、それぞれの機能に絞り込むことで、近森リハビリテーション病院は全国有数の全館回復期リハ病院に、近森病院は全病床を救命救急医療に絞り込み、救急搬送件数では中四国で3番目、高知でトップの屋上にヘリポートを有する救命救急センターにまで発展することができました。この瞬間が近森と近森以外の救急病院との分かれ目だったと思います。JOB61故 石川誠先生 元近森リハビリテーション病院 院長(50年目の近森会より)Q.43
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