人工透析を始めたきっかけや、正博前理事長が透析室の医師になった経緯は?開院以前、正博前理事長は肺結核に対する外科療法が専門で、透析とは異なる分野だったので気になりました。父 父 近森正博(近森病院透析室20周年CAPD室10周年記念誌より)よくご存知の方の質問と思います。人工透析を始めたきっかけは安定収入の確保が目的です。正博は東京大学医学部を卒業後、東大第二外科の都築外科に入局しました。突然、歩兵第144連隊に召集され、ビルマ戦線に向けて出発するまでの4カ月ほどの間に学位論文「肺結核■択的肺成形術療法施行時に於ける呼吸機能検査法ならびにその成績について」をまとめ、終戦直前に医学博士の学位を授与されています。当時の医師は外科医と言っても胸部から腹部、骨折、脱臼、なんでもやっていましたので、特に胸部外科専門というわけではありません。父は東京女子医大で勉強し透析療法を近森に導入、自分で担当してくれていました。駅前の分院で透析を行っていましたが、弟の正昭が透析医師として帰ってきてほっとしたのか、ほどなく父は亡くなっています。正昭の時代はできるだけ外来維持透析は当院に自分で通院できる患者に限定し、いつでも緊急入院が必要な透析患者の受入れができるように空床を確保するようにしています。これにより高知県内全施設から急変や予定手術で入院が必要な患者の受入れができるようになり、年々、紹介入院患者は増えています。私は31歳の時に近森病院へ帰ってきました。すぐに分院の院長に就任しましたが、実際は本院で外科を中心として実質的な院長として働いていました。父は本院の院長でしたが、駅前の分院で透析をしながら本院はすべて私に任せてくれました。朝、散歩の途中に用があって本院玄関の受付へ行った時、警備の人にどなた様ですか?と問われ、激怒していましたが、それだけ徹底して分院に閉じこもってくれていました。若造の私では対外的な信用がないので、自分が本院の院長でなければならないと心から思っていたようです。確かに37歳で院長になって新館を作る前には四国銀行の営業本部長が面会に来られましたが、この若造の院長に多額の投資をして大丈夫かと見に来られたと思います。JOB54Q.38
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