病院で働く正博前理事長の印象に残っている姿やエピソードを聞かせてください。2ページ目へつづく▼当時の近森病院南西方向より撮影現在の本館A棟に向かって(提供:近森正幸)当時の自宅(提供:近森正幸)3階が屋根裏部屋 小さい頃は、父は診療に、母は給食で忙しかったものですから、病院が遊び場のようになっていました。昔は手術場には網戸を張り、夏は氷柱を置いて手術を行っていました。 今で言う補助看にあたるおばさん達も多くいて、包帯を洗濯しては、自宅の3階屋根裏部屋で乾いた包帯を巻いていたり、蚊帳を切って石膏を塗りギプスにしていました。術後の患者を2階の病室に上げる際はエレベーターなどないので、このおばさん達が大活躍で担架に乗せて、上手に持ち上げていました。 父は腹部外科が専門でしたが、交通事故が増えて交通外傷が運び込まれるようになると、岡山大学整形外科の児玉俊夫初代教授のもとで勉強し、ゴルフで仲良くなることで整形外科医の派遣が始まり、現在まで脈々と続いています。交通事故が高度化し頭部外傷が増えると、脳外科の勉強を東京で行い、そのご縁で脳外科を開設、最終的に東大出身の群馬大学脳外科の川淵純一初代教授と仲良くなり、群大から脳外科医を派遣して頂くようになりました。透析も東京女子医大の太田和夫教授のもとで勉強し、アメリカの学会などにはいつも同行し、若手の先生方を派遣して頂いておりました。 このように時代の変化に合わせて外科から分かれた黎明期の整形外科や脳外科、透析の先進的な医療を自ら勉強 PRIVATE42Q.30
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